最近の自分は些細なことで喜びすぎていると思う。
喜んでいいことだし、感謝すべきことではあることばかりなのだけど、あえて意識しているようなそんな気がする。
たったそれだけの事が当たり前にある。
人の親切がとても嬉しくて、過剰に感じる自分を省みる。
本編でいう、例の事があったからこそ、今の自分がいるわけだが、気にし過ぎなのではないかと思う。かといって、忘れる事が出来るわけでもない。
今の心境は堂々巡りもいいところだ。
いつか終わってしまうことを恐怖しながら、それ以上のことを、新たな変化とともに望み、その望んだ時がきた時に、今を省みて、あのころの方が良かったと嘆く。
くだらないと思う。
しかし、
思いながらも心の中は渦巻いて。
最近、それは変わったのだろうか。
今と昔。
昔といってもそれほど古くは無い。
けれど記憶は薄れていくもので、極端に良い場面と悪い場面が自分の中で自分勝手な編集をへて映像化している。
自分の居場所を何処にあるのだろうか。
――そんなこと、分かっている人の方が少ないんだろうけれど・・・。
最近あった一例。
一限目の移動教室の前。
知らない人(他クラス)が体操服を忘れたといって探しに来た。
偶然持っていたので、貸した。
本鈴がなりそうだったので、つい、クラスとナマエを聞きそびれる。
――それが今回の最大かつ重大なミスだろう。
――勝手に相手を信頼して、馬鹿を見る。
その日は水曜日。
次の日は遠足で学校には来ない。
その次の日、金曜日に私のクラスは体育があった。
私は、今日は体育が無いから今日中なら何時返してくれてもいいよ。
と、伝えたと思う。
急いでいたので記憶は曖昧だ。
水曜日中、自分の失態を気にし、心配した通り、体操服は帰ってこなかった。
帰りに、一限目が体育の授業だったクラスに目星をつけて訪ねた。
相手の顔も曖昧で、相手が気づいてくれるのを待ってみたものの、既に帰ってしまっていたようだ。
大変困ったことになっていた。
私は、自分の心の安定のために、このことを友達に話していた。
――いま思えば、心の安定だったのだろうということで、その時は自分の心境のことなんて冷静に分析できてはいない。
話して答えが出るわけではない事は分かっている。
何故ならば、アドバイスをしてくれる事をする気が無いからだ。
例えば、目星のついたクラス(合同なので二クラス)の黒板に探していることを大きく書くとか、そのクラスに行って、大声で聞くとか、そういうことだ。
何処かで抵抗があった。
単なる臆病者だ。
この時も、とてつもなく嬉しかった事が一つある。
それは、帰りにクラスを訪ねた時、友達がついて来てくれたことだ。
私自身、逆の立場だったらついていくことになんら抵抗は無い。
多分、付いて行っただろう。
しかし、付いて来て貰えた。この私が、だ。
何故か、無性に嬉しかった。
――何時もの事なのだが、
――誰かに物を貸すことの方が、借りることよりも安心する。
――それは、壊されることがあっても、壊すことが無いから。
――失くされる事があっても、失くす事が無いから。
――相手を信用していないわけではないのだけれど、落ち着く。
同じようなことなのだ。
たったそれだけのことと、心のどこかでは分かっているのだけれど、とても大きなことなのだと感じている。
金曜日にもし返してもらえなかったら如何しよう。
不安は募った。
水曜日に家で中学の時のを、探した。
しかし、見つからない。どうして必要とする時に消えてしまうのか。
あくる日、木曜日。遠足の日。
友達二人にそれを相談した。
そしたら・・・・・。
金曜日。
二人ともが、持ってきてくれた。
既に使われていない妹のだそうだ。
返してもらえるまで、使っていいとまで言ってくれた。
自分は此処でちゃんと生きているんだ。
言葉では表せない嬉しさと驚きがあった。
何か、困った事があったら絶対に助けられるようにしたい。
力になりたい!!
結局、私の体操服は月曜日に返された。
当人曰く、水曜日は私が帰った後で、金曜日は休んだそうだ。
なんというか、文句が出るよりもホッとしていた。
授業対策は出来ていたが、借りっ放しというのも気が引ける。
けれど、この事あって、自分の居場所を見つけたれた気がした。
気がしただけなんだけど。
平成十七年六月十三日月曜日
an essay
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